大事なのは「驕らない」ということ

こんにちは、ほりこです。

先日、私は以下のようなツイートをしました。

 

ADHDの遅刻癖、アドバイスされたことはすでに全部やってるのよ。それでもダメ。コンサータ飲んでてもダメなの。そろそろ「遅刻はダメ」っていうのをADHDに適用しないでほしい。私だって遅刻しない自分になりたい。毎朝「今日は遅刻しないように」って必死に自分と闘ってんの。#ADHDあるある https://twitter.com/wxwe8ecekrfn0fd/status/1020277850270650368?s=21

 

このツイート、私の経験ではこれまでの中で一番拡散されています。

そして、このツイートに同じADHDの人、ADHDだけど私とは症状のタイプが違う人、ADHDではないけど遅刻癖に苦しんだことがある人、アドバイスではないけど一緒に考えたり悩んだり怒ったりしてくれる人、心理カウンセラーの人、ADHDについて知らない人...本当にたくさんの方からリプをいただきました。

おかげさまで、私は今、遅刻癖がだいぶ改善されています。見ず知らずのはずの人がこんなにも一緒になって改善方法を考えてくださったことや、いただいたアドバイスを実際に実行してみて遅刻せずに済んだことがとても大きく、私のモチベーションにもなっております。本当にありがとうございます。

そして、今回の件を経て、ひとつ私の中で大きな気付きがありました。ざっくり一言で言うとタイトルの通り「驕らない」ということの大事さに気付いたのです。

私のTwitterアカウントには約180名強のフォロワーさんがいます。私の場合は特にフォロワーさんに向けて有益な情報を発信しよう!と思っているわけではなく、あくまで自分が考えたこととか、感じたことをアウトプットするためにやってるのですが、それでも見てくれている人がいるので、一応私も発信者だと自覚はしております。今からするお話は「SNSでの発信者の自覚」と「驕りの原因」についての内容となります。

SNSにありがちなことですが、特定のジャンルの中の「有名人」とか「インフルエンサー」っていますよね。「発達障害」のジャンルも例に漏れず、「発達障害といえばこのアカウント」みたいな有名人の方が何人かいらっしゃると思います。そういう方にはたくさんのフォロワーさんがいるので情報も拡散されやすいかと思います。ましてや、発達障害のジャンルについては、発信したい人が多いような印象ありますし(私もその1人ですが)、各々「自分は発信者である」というふうに思っている部分があると思うんですよね。

少しずつフォロワーさんが増えていき、自分の発信したことがより多くの人に伝わったり、影響を与えられるようになるというのは、純粋に嬉しいことなんですよね。自分の考えに共感してもらえたり、自分が発信した情報が誰かの役に立ったというのは自信にも繋がります。徐々に「私は発信者なんだ」という自覚が強くなってくると思います。そして周りも「あなたは発信者だ」と感じるになり、インフルエンサーとそのフォロワーとしての関係が生まれると思います。

「驕り」が出てくるのはそこからだと思います。「自分は発信者でフォロワーが多い」だとか「このジャンルにおいて有名人だ」という自覚が生まれると、自分が特別な存在であるかのように錯覚したり、あくまでネットで得た情報や書店で買った本の中の知識しかないのに、有識者であるかのように立ち居振舞ってしまったりします。もちろん、そのジャンルについて無知な人と比べたら「有識者」なのかもしれません。ですが、学者や研究者など、その道の専門家でもない限り、「素人で、そのジャンルについて一般的な知識を持っている人」にすぎません。たとえ自分が当事者であったとしても「専門家でない存在」には変わりありません。

私はよくTwitterで法律や人権問題についてつぶやきますが、私が持っている法律の知識は大学4年間で専門家から学んだ「一般知識+α」くらいのものです。まったくの無知な人よりは知識を持っていますし、法的事案を理解するのも勉強したことがない人と比べるとスムーズですが、「この判例があるからこういうケースはこう対処できる」みたいなことはわからないんですね。ですが、イベントことについては(まだまだ見習いレベルではありますが)一応仕事としてやっているので「こういう場合はこう対処ができるし、あんな対処もできるよ」と言えるし、「素人でイベントの知識がある人」ではないんです。

自分が「プロ」「本職」と呼べる領域については堂々としてたらいいんです。でも自分がプロではない場合は、たとえ他の人より知識があったとしても驕るべきではないと思います。驕らず、自分を俯瞰で捉え、素直に学んだり、他人様の意見や考え方を受け止めたり、周囲に相談したりして人と関わり合っていくのが目指すべき姿だと思います。私は今回の件でそれを深く自覚しました。そしてこの「驕らない」という姿勢が自分をより快適にしてくれるのだと改めて感じています。

よく「発達障害者が社会に適応するには定型発達者に合わせ続けるしかない」だとか「無理して社会に適応しようとするのではなく、自分のペースでやればいい」とか、「福祉に頼って生活すればいい」「福祉がもっと手厚くなれば」とか、発達障害の当事者が発言しています。たしかにこの意見もその通りなんです。ですが、個人の態度を変えるだけで簡単に生きやすくなる部分も大いにあると私は思います。

 

発達障害は本当に理解されにくい障害です。当事者にならなければわからないことがものすごく多いです。でも、あなたが驕らず、卑屈にならず、素直で正しい行いをしていれば、あなたのことを心配したり、助けようとしてくれる人は絶対にいます。話を聞いたり、知識を得るだけではわからないことだらけなはずなのに、少しでも理解しようとしたり、理解はできなくても寄り添おうとしてくれる人は本当にたくさんいます。そういう人の親切心や善意をありがたく思い、感謝の気持ちを持って接し、素直に困っていることを説明してみてください。絶対に助けてくれる人がどんどん増えてくると思います。

ときには、こちらが真摯に向き合っても理解してもらえないこともあるかもしれません。悲しいけど、それは自然なことだと思うんです。発達障害は目に見えない障害ですし、相手の方に障害があろうと無かろうと、自分とは違う環境で育ち、違う価値観を持っているというだけのことです。その人たちにそれ以上理解を迫る必要はありません。そういう場合は、伝える側にとっても受け取る側にとっても「理解できない」という場合は、「無理に理解してもらう必要もないし、理解する必要もない」その距離感がベストだというだけなんです。

 

私は発達障害有識者でもなければ、法律の専門家でもありません。いくらTwitterやブログで自論をこねても社会を変えるなんてことはできません。ですが、自分をより良く変えることはできます。そして自分が変われば周りの反応も変わります。もしかしたら、それが伝播していくこともあるかもしれません。

社会により良くなってほしい・環境を改善してほしいと思うなら、まずは自分を良くしていきましょう。そしたら何か変わります。もちろん自分が変わったくらいでは態度を変えない相手もいます。でもそれはその人がそういう人だっただけで、世の中の人みんながみんなそうじゃないです。

自分を正して、まっすぐ向き合う。

私はこれから、そうやって変わっていこうと思います。

長文、乱文となりましたが、ご覧いただき、ありがとうございました。