障害に甘えないとはどういうことか。

こんにちは、ほりこです。

 

先ほど、こんなツイートを見つけました。

https://twitter.com/chiro_kazenohi/status/987928879078649856?s=21

 

この方の1連のツイート、

当事者の方ならとっても共感できますよね。

でも、ふと思ったんです。

 

障害を理解してもらうのはいいとして、

生きづらさをわかってもらったところで

どうするんだろう?って。

 

生きづらさをわかってもらえれば

障害者にとってより過ごしやすくなるんでしょうか?

そして、その生きづらさは

本当に障害者だけのものなのでしょうか?

 

私はたぶん違うと思います。

 

私はADHDなので、

あくまでADHD目線の話にはなりますが、

私がADHDとして日頃困っていることは

 

・大事なものをよく紛失する

・身支度が上手くいかない

・遅刻する

・管理ができない

・スケジュール管理ができない

 

というようなものです。

 

その結果、周囲からの信頼を失いがちで、

人間関係を築いていくのが難しかったりしますし、たしかに生きづらさは常に感じています。

 

でも、その生きづらさを

障害のない人にわかってもらう必要は

私はないと思っています。

なぜなら、

「障害がない人でも

上手くいかない人はたくさんいる」

からです。

 

発達障害を抱えていれば誰しも1回は

「もし発達障害がなかったら...」

と考えたことがあると思います。

 

でも、もし私が発達障害がなかったら、

仕事ができる人になれたのでしょうか?

 

たぶん、

「頑張ればなれるかもしれないけど、

そうなるにはそれなりの努力が必要」

だと思います。

 

発達障害の生きづらさをわかってもらいたい!

という気持ちはものすごくわかります。

でも、これって同時に定型発達者への

偏見にも繋がる気がします。

発達障害者がいう

「生きづらさをわかってほしい」には

「私とちがって発達障害がないんだから

私ほどしんどくないんでしょ?」というような

障害者から健常者への偏見が潜んでいる気がします。

 

全然そんなことないと思います。

定型発達者だってこの窮屈な社会に

日々揉まれているんですから、

生きづらさは絶対感じてると思います。

(もちろん障害者は

障害がある分さらに大変ですが…)

 

しんどさ自慢をし合ったところで

誰も幸せになれないのと同じで、

障害がゆえの生きづらさを

定型発達者にわかってもらっても、

きっと同情されておわりです。

生きやすくも何ともなりません。

それどころか、

場合によっては言い訳がましく

受け取られ、疎まれるかもしれません。

 

どんな障害かを伝えること、

障害が生活にどのように影響するか

などは周囲に伝えればいいと思います。

でも生きづらさをわかってもらおうというのは

「障害に甘えている」ような気がします。

 

定型発達者も障害者も一緒に

しんどさと闘いましょうよ。

障害に甘えて「できません」というより

「ここまでならやれます!」って

言えることが大事な気がします。

 

今日は短めですが、このへんで。