自分の道くらい自分で切り拓け

お久しぶりです。ほりこです。

まだまだ絶賛繁忙期ですが、今日は思わず「は?」と思うことがたくさんあったので、ここに吐き出していきたいと思います。

まあ、内容はタイトルの通りです(笑)

こう思うきっかけになったのはこのツイート。

 

嫌なら辞めたらいいとか、辛いなら逃げたらいいというのは、その後のことが保障されていて意味があるのであって、それを高みから言うのは「逃げないのは自己責任」という理屈を生みかねない。https://twitter.com/nyovh7fiap/status/1003776581154701312?s=21

 

ツイ主には失礼ですが、わりと真剣に「は?」と思いました。「学生や未成年で社会に出てないならまだしも、なに甘えたこと言ってるんだ?」と。

以下は私の自論です。今日はちょっと半ギレなのでいつも以上に言葉がキツいので、精神的に弱ってる方は回れ右してください。(まぁ、もうここまでの時点ですでにキツいけど...) ここから先をご覧いただく方も閲覧注意です。ここから先を読むか読まないかはご自身でご判断ください。

 

結論から言いますと、「辞めた後のことくらい自分でどうにかしやがれ!!」なんですけど。

というのも、すべてがすべて自己責任ではないにしろ、社会に出て仕事してるのであれば絶対お給料もらってるんですよね。勤務先が超ブラックで長時間労働してるのに残業代が出なかろうが、薄給で貯金が出来なかろうが、セクハラやパワハラが横行してようが、自分の食い扶持を自分で稼ぐことはできてるんですよね。

しかも成人していれば(例外を除いて)だいたいのことは自分の意思で決めることができますよね。

しかも日本の憲法は、「雇用者に対して、労働条件や環境に不満があったら団結していいし、交渉していいし、ストライキしていいよ」って権利まで保障してくれてるんですよね。もし仮に交渉についての知識が無くても、今はGoogle先生やSiriが何でも教えてくれます。なんならハローワークや労基署に行けば詳しく教えてくれます。

もちろん、そこまでしなくても仮病使って休んだり、病院行って1万円ちょっと払って診断書をもらって休職することもできますし、当然退職だってできます。

もし仮に再就職先が決まらないまま辞めたとしても、失業保険があるので給付を受けることができますし、バイトして食いつなぐこともできます。プライドを捨てて親に養ってもらうこともできますよね。

こうやって列挙してみたら、よりはっきりとわかると思います。

「辞めたあとのことが保障されてない」というわけではなく、「辞めた後にどうすれば生きていけるかなんて考えたくないし、そんな面倒でしんどいことをわざわざやりたくない。でも今より楽になりたい。会社が悪いし会社に変わってほしい。」という思いが「辞めた後のことが保障されてない」って言葉の裏側にあることが。

(ここからさらに言葉がキツくなりますので閲覧注意)

自分は何もしないけど、今より楽になりたい?しかも自分は何もしないのに周りに変わってほしい?あなたどこの国の暴君ですか?

日本は幼児期から就活前くらいまでの期間なら、言われたことさえやってりゃ受け身な姿勢でも全然生きていけますよね。でも就活始まったくらいからは「自分の将来は自分で決めろ」と言われるようになりますよね。そりゃそうです。就活までの間に社会に放り出されてもそれなりにやっていける知識と教養、スキルは一式揃えてもらったんだから。(もちろん、一部満足に学校に行けなかった人もいますけれども)

与えられた知識やスキル、経験を上手に使いこなせるかどうかは個人の問題ですし、それを何にどう使っていくかも個人の自由です。夢や目標がある人もない人も、お金がある人もない人も、障害や病気がある人もない人も、周りに頼る・頼らない含めて、結果はどうあれ自分の行動次第なんですよ。

自分の将来を保障するのは自分でしかないんですよ。そういう意味で私は「お前の退職後の保証くらいお前でどうにかせえ!助けを求めるなら自分で呼べ!そこでじっとしてても誰も助けてくれへんぞ!」と思うんですよね。

世の中、自由も多ければ、理不尽も多いので、すべてがすべて自己責任とは思いませんが、自分で取らなきゃいけない責任って絶対あると思うんですよ。理不尽を受けた側だったとしても、そこからどう対応していくかは個人の責任なんですよね。

ご存知の通り、私は「自分で取るべき責任も取ろうとしない人」っていうのが好きではないので、今回こんな言葉のチョイスがひどく、ボリューミーなブログになってしまいました。

本当に、まったく言葉を選ばずに書いたので、相当キツくて嫌味ったらしくて腹立つ内容になってると思います。ここまで書いておいて何ですが、気分を悪くされた方、本当にごめんなさい...そして最後までご覧いただき、ありがとうございました。(ここまで読んでくださった方がいるかどうか...)

ガッツを持っていたいものですね…

では、今夜はこれで失礼いたします。

広告業界に転職して気付いた「PR」のこと

お久しぶりです。

ツアーもののイベント真っ最中、毎日ドタバタしてます、ほりこです。

さーて、今日のテーマは「PR」についてです。私にとっては仕事の話題ですが、皆さんにとっては「自己PR」とか「SNSでのPR」とかそういうイメージなんかなー?と思います。今日はそのPRについていろいろ書こうと思います。

まぁ、PRについてはわざわざ説明しなくてもいいと思うので割愛するとして、皆さんどういう時にPRしたくなりますか?

おそらく、だいたいの場合は「〇〇を知らない相手に対して少しでも知ってほしい」って時だと思うんですよね。

でもここからが問題で、「何をどう知ってほしいの?どう思われたいの?」って話なんですよね。

私は現在、TwitterInstagramFacebookの3つのSNSをやっています。目的は主に情報収集や頭の中で考えたことをアウトプットして整理すること、あるいは日記の代わりです。なので「自分を知ってほしい」というわけではないんですね。

でも、SNSをやってると「自分を知ってほしい。自分が知ってる有益な情報を発信したい」という人もけっこういますよね。中にはそれで収益を上げている人もいます。

そういう人を見る度に「あなたの目的は何なの?その情報を誰に向けて発信しているの?」と私は思います。

少々回りくどくなりましたが、PRする上ではこれが重要なのです。

目的は何か?PRしたい相手は誰か?何をPRするのか?

これもハッキリしないまま「私のことを知ってほしい」なんて言っても無理があるんですね。それこそ「ただの自己顕示欲の強い人」に見えてしまいます。

少し前から、最近、発達界隈で流行ってるイベントやオフ会等についてTwitterで物申しているのですが、「みんなで集まってなんかできたら楽しいよね!」ってノリだけでやるようなものを「PRイベント」として認めるのに抵抗を感じるのは、これだと思うんです。

ここからは少々皮肉っぽくなりますが、イベントを仕事やってる側からすると、「発達界隈で流行ってるイベントはPRイベントじゃなくてオフ会の延長」にしか見えないんです。規模が小さいとかそういう話じゃなくて、「PRするもの、PRの目的、PRする相手」が無いように見えるんです。

「イベントを開催して認知度を高めたい」のかも知れませんが、「イベントを開催する前にあなた達は誰に向けて何を売りたいの?」って話だし、「売るものも売る相手も定まってないのに何をPRするの?」って思うし、そこからブランディングなんかできるわけないと思うんですよね。

「何でもやりたい!」はいいのですが、そこにひとつのハッキリとした軸がないなら「地に足着いてない信用ならない団体」に見えてしまうんです。就活にしてもビジネスにしても、軸がないとPRされたとて印象に残らないです。

 

いろいろと偉そうなこと書きましたが、私もまだまだ自分の軸を作っている途中です。(だからPRはしないんですが…)ビジネスを立ち上げる頃には、しっかりと芯のある人間になりたいものですね。

では、今日はこの辺で。

 

「障害者」と「健常者」のちがい

おはようございます、ほりこです。

春どこ行った?くらいの勢いで最近暑いですね。まだ5月やん?何でこんな暑いの?5月でこれとか7月・8月なんてどうなんの?と思います。衣替えが全然ついていけません…

 

さて、今日の話題はタイトルの通り!

「障害者」と「健常者」のちがいについて、考えていきたいと思います。

というのも、実は昨日、私はこんなツイートをしております。

 

別にすべてがすべて自己責任とは思えんけど、大人である程度の判断能力があるなら、稼ぐ方法もいろいろあることはわかるやろうし、今どきネットで情報収集だって簡単にできるはずやのに。判断能力が鈍ってる人は全力で休めばいいと思いますけど、頭回るうちは言い訳ってできない気がするなぁ。https://twitter.com/wxwe8ecekrfn0fd/status/995889031329304576?s=21

 

そして、作家のはあちゅうさんも、同じようなことを仰っていました。

 

自分を全部、自分で選べる時代が来た。会う人も、触れる情報も、働き方も、何もかも自分の意志で選べる代わり、言い訳が言えない時代だと思う。自由は選択肢が多いという不自由といつもセットなので、意思決定が出来ない人にとっては不自由な時代が来た。https://twitter.com/ha_chu/status/995914850378235905?s=21

 

そう。今の世の中って、自分さえ動けば、誰かに何かをしてもらわなくても何でも得られる時代ですよね。スマホさえあれば、だいたいのことはできる時代です。

だから、なおさら、「障害者」と「健常者」のちがいや格差も曖昧になっている気がします。

 

私は、『「障害者」と「健常者」のちがいなんて一つしかないんじゃないか?』と思っています。

その唯一のちがいは「障害があるか、障害がないか」です。

「いやいや、何言ってんのほりこさん。それは当たり前でしょ。もっと他に障害者の方が苦労してることあるでしょ。」という声が聞こえてきそうですが、今から理由を説明しますね。

 

さっきも言った通り、今はスマホ1台でだいたいのことができる時代ですし、総務省の統計によれば、モバイル端末・PCの普及率はなんと94.7%にも及ぶそうです。http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc262110.html

健常者も障害者も、PCやモバイル端末があれば当たり前に世界と繋がれるんですよね。

もちろん、身体障害があって上半身が自由に動かせない人や盲目の人などは、操作が難しい、情報が得にくいなどの不便さはありますが、(お値段は高くつきますが)視線や脳波を使って操作ができたり、音声で読み上げてくれる機能がついていたりと、基本的には誰でも使えるようになっています。

 

だから、インターネットを上手く使ったもの勝ちなんですよね。外で働けなくてもインターネットを使えば自宅で働けます。アフィリエイトだけでなく今流行りのクラウドファンディングを使ってお金を生み出すこともできるし、貯金を投資に回してお金を増やすことだってできます。

今まではそれができなかったから障害者にとっては不便極まりない社会だったのでしょうが、今はそういった障壁がなくなったんです。

ちょっと頭を使えば誰だって働けるし、そこに「障害者」か「健常者」なんてことは関係なくなってきている気がします。

もちろん、障害の程度というのは絶対にあるし、大なり小なり周囲の手助けは必要です。(特に身体障害者は、物の運搬や設営に苦労を要すると思います。)

でも、逆に言えば、「周囲の手助けは最小限でも何とかなるし、稼ごうと思えば自力で稼げる」という時代だと思います。

そんな時代にいながら、ある程度身体の自由が利き、健康面に問題はない状態で「どうしても働けない」というのであれば、それは障害云々の問題ではなく「精神面」の問題だと思います。

甘えているか、甘えていないかはさておき、「働けない」理由はあくまで個人の精神的な課題であって「障害者」という部分は正直そこまで関係ないと思います。

健常者に「障害を言い訳にするな」と言う人が少なくないのは、きっとそういうことを潜在的にわかっているからだと思います。

逆に「障害抱えながら働いてたけど、ついていくので精一杯で精神面やられました」とかなら、健常者も「障害を言い訳にするな」とは言わないし、そういうこと言う人は健常者にも障害者にも叩かれます(笑)

 

何が言いたいかというと、「障害」のせいでできないことなんて実は限られていて、本当は大半のことはできるんです。

もしできない理由があるとしたら、それは「障害」が理由ではないし、その原因は「障害者だから起こるもの」ではなく、「健常者にも起こるもの」だと思います。

 

私は何かにつけて「障害があるから」を枕言葉にする人、けっこう苦手です。

障害で困ることはいっぱいあっても、すべてがすべて障害のせいなわけないし、「障害があるから」は「やらなくてもいい」免罪符ではないです。障害があろうが依存症で自分をコントロールできなかろうが「ダメなもんはダメ」です。

 

疲れたら休めばいいし、何も精神崩壊するまで働けとは思わないけど、休んだあとは働きましょう。

お金を稼ぐ方法も、一人暮らしをする方法も、いっぱい情報は出回ってます。それをやるかやらないかはあなたの責任だし、やって失敗しても、やらないで失敗してもあなたの責任です。自分でやれる範囲のことは自分でやりましょう。

何度でも言いますが、「障害」はあくまで「障害」でしかないし、「やらないための免罪符」ではないです。

頭捻ってやることやってれば、だいたいのことは何とかなります。

 

では、今日も頑張っていきましょう。

「できないけどやる」の一択。

どうも。ほりこです。

昨日仕事の本番初日が終わりまして、ホッとすると同時にものすごい疲れました。

本番終了後、上司(ADHDのことは告白済み)からのフィードバックがあり、一言、こう言われました。

「遅い。」

いやもう、その通りすぎて「すみません」としか言えなかったです。

そしてその上司の次のセリフが

「段取りをもっと綺麗にやれ。仕事が早い人はものごとの整理整頓が上手い。それには性格とか血液型とか関係ない。段取りを綺麗にやる人は仕事のQOLも高いし、何でも綺麗にまとまってる。段取りが悪いと何でも雑に見えるし仕事のQOLも低い」

ずっしりきました。納得しかなかったです。上司がどこまで私の障害のことをわかっているのかは知りませんが、きっとネットで調べたりしてどんな障害なのかは理解してると思います。(そういう良い上司なので...)

その上でこう言われてると思うし、「『できない』で終わるな。やれるように方法を考えろ」と暗に言われている気がします。

そうなんですよね。

社会に出たら「ADHDだからできません」で終わっちゃいけないんです。確かに、私が段取りが綺麗にできないのは十中八九ADHDが原因です。でも、世界中のどこを探しても「段取り・片付け・管理」がいらない仕事なんてないです。絶対に。

障害を周知した上で働いていても、一緒に仕事する同僚やクライアントは健常者ですし、健常者のQOLを前提に仕事が振られます。障害者枠については詳しく知りませんが、きっと障害者枠だからってQOLの低い仕事でいいはずないですよね。

だから働こうと思ったら「できないけどやる」しか選択肢はないし、こっちが健常者のQOLに追いつくしかありません。

でもその差を埋めるのってそんなに簡単じゃないです。工夫したからといって一朝一夕で改善されるものではないし、長い期間トライアンドエラーをやり続けてようやく埋まるものです。

となれば、とにかく量をやるしかないし、悠長なことも言ってられないからスピードを上げるしかないんですよね。スピードを上げるにはスキルをつける、知識をつける必要もあります。

発達障害を言い訳にしないっていうのは、この努力をちゃんとやることだと思うんですよね。

文句は言うけどちゃんとやる。「障害があるんだからできなくて当然だ」とわかっていつつも、でもやるんです。

私は、これを「やらない」のは「障害を言い訳にしてる」と思うし、健常者の同僚や上司もそう思って当然だと思うんです。

「やってるけどできない」だったら、健常者の人も助けてくれます。でも「できないからやらない」だったら、健常者の人は助けてくれないです。

「できないからやらない」と言ってるうちは「甘えるな」って言われても仕方ないと私は思います。

 

大事なのは「できるかどうか」じゃなくて、「やろうとするかどうか」「やってみたかどうか」「やれるようになるだけの努力をしたかどうか」ですよね。

私の上司は私が頑張ってできなかった時は怒らないし、むしろ助けてくれます。でも私が努力しなかったらめちゃくちゃ厳しく叱られるし、冷たくあしらわれます。(でもちゃんと「こうすべきだった」と正解も教えてくれます。超いい上司です、本当に。)

今、私は本当に心から尊敬する上司に出会えたし、その上司の下で仕事できるうちに、もっとできることを増やしたいと思っています。

そのためにいろいろ思考錯誤してます。

そうやって努力しようとしてる自分の方が、努力をしようとしない自分よりも、私はずっと好きです。

 

今日はこの辺で失礼しますね。

では、良い週末を。

 

 

発達障害者は働けないのか問題。

どうも、ほりこです。

 

昨日upした記事がなんとThe BRATsさんの目に留まったようで、このようなコメントをいただきました。

 

【以下、引用文】

ほんまにその通りやと思います。
僕も憩いの場所にするつもりはないし、どうやったら上手く社会に溶け込めるかをテーマにコミュニティ作りをやっています。
障害あるあるグッツの企画は急ピッチで進めていますし、まるさんが求めるような空間に近づけて行きたいと思います。
よろしくお願いします!

https://twitter.com/bar_brats/status/991210317173555200?s=21

 

グッズの製品化に向けても準備されているそうですよ!これは朗報ですね☺️

 

このコメントをきっかけに

The BRATsさんの他のツイートも拝見していたら、こんなリプを見かけました。

 

【以下、引用文】

発達障害の課題はまず底辺の底上げじゃないすかね。就労したくてもできずにただただ引き篭もるしかない人がどれだけいるか。障害年金も認められず発達障害者手帳すら無いこの冷遇社会で。発達障害バーの人の言う既に就労までできてる人が何をするかまでまだ社会が追いついてない。
#発達障害

https://twitter.com/nagahiro_ryo57/status/991228849751969792?s=21

 

発達バーのBratsさんは就労してる発達障害者がメインターゲットだから、障害者でも自立していくべきってスタンスなんだな。だから二次障害でへとへとで周りに助けてもらいたい、迷惑かけても大目に見てほしい当事者とはそもそもベクトルが違うのよ。それは仕方ないね。

https://twitter.com/shian1062/status/991193308037693440?s=21

 

私は就労している発達障害者なのですが、

「就労したくてもできない発達障害者」は

きっとたくさんいるんだと思います。

 

そこで「発達障害者が就労できない理由」って何なの?と気になったので考察してみようと思います。

今回もあくまで私の考察ですし、就労できない発達障害者を否定するつもりは一切ありませんので、その点はご了承ください。

 

まず、発達障害者が就労できない理由として考えられるものを挙げてみます。

 

・障害の程度が重度であり、支援を受けても就労することが難しい状態

・健常者と一緒に頑張ってきたけれど、鬱や適応障害などの二次障害になり、休息が必要な状態

・健常者と一緒に頑張ってきた(いる)けれど、発達障害由来のミスや失敗がトラウマになり、二次障害を脱しつつあっても就労に踏み出せない状態

 

今思いつく限りではこんなところでしょうか?

1番目はもう仕方ないし、社会保障制度の問題になってくると思うので、今回は考えないことにします。

問題は2番目と3番目だと思うんですよね。

 

2番目の人が働けないのはわかります。

でも2番目の人だってきちんと休息を取れば二次障害から脱することは可能なはずです。

そして3番目のステップに移ると思うのですが…

 

ここで問題になってくるのが

「休息の取り方」だと思うんですよね。

私も転職活動期間中、約3ヶ月の無職期間があり、その間は実家で2ヶ月、彼氏宅で1ヶ月養ってもらいながらの生活でした。

 

無職の期間は当然、毎日休みです。

そう聞くとパラダイスのように思われるかもしれませんが、楽しかったのは最初の1ヶ月だけで、その後はつらかったんですよね。

というのも、周りはみんな働いていて、

その上で休みを満喫していたり遊んでいるんですよね。

その中で1人だけ働かず、

他人が稼いできたお金を使って生活している...

私にはこれがつらくて仕方なかったんです。

(まぁ貯金もないのに辞めた私も悪いんですけどね…)

 

就活も家事もやってはいたけど、

思うようにはできなかったし、

養ってもらう申し訳なさに苛まれる毎日でした。

なので、全然休養にはならなかったんです。

 

きっと二次障害に苦しむ人で休養中の人も

同じように苦しんでるんじゃないかと思いますし、長すぎる休息はかえって身を窶すんじゃないか?と思います。

健康のためには適度な運動が必要なのと同じで、精神的な健康のためには適度な労働ってやっぱり必要だと思うんです。

 

「休みたい」「休みが幸せだ」と感じるうちは休めばいいと思いますが、休むのがつらくなってきたら、アルバイトでも何でも、労働に踏み出せばいいと思うんですよね。

 

私の主治医はよく

発達障害だからって何もかもできないわけじゃないんだよ。向き不向きはそりゃあるけど、ひと工夫すればできることはいっぱいあるんだよ。」

と言うのですが、本当にその通りだと思います。

 

2番目→3番目の人が働けるかどうかって、

その1歩を踏み出すか、踏み出さないかの違いな気がするんですよね。

(もちろん2番目の人は休みましょう。無理していいことはないので。)

 

1番目の人は社会保障制度を使いましょう。

2番目の人は心ゆくまで休みましょう。

ただし、休むのがつらくなってきたら3番目の段階だと思うので、働くための1歩を踏み出しましょう。

 

最後にひとつだけ。

自己都合退職の場合は退職後の3ヶ月失業給付なしなので、少なくとも給料3ヶ月分の貯金貯めてから退職することをおすすめします。

(一番困ってる時期にはお金くれないくせに再就職後に手当くれるの、あれほんと不親切だと思う...)

 

では、今日はこのへんで!

私が求めている発達障害支援はこういうの。

おはようございます。

三連休明けで全然やる気が起きません。

ほりこです。

 

仕事やら何やらでバタバタしてたら

気づけば1週間すぎてましたね。

全然更新してませんでした...

 

ココ最近、

発達障害バーが

発達障害界隈で話題になっていますけれども、

本日は発達障害バーをきっかけにいろいろ物申していきたいと思います。

(最初に申し上げておきますが、

決して発達障害バーを否定するわけではなく、

あくまで私個人の感じたことを書き綴るので、

その点はご了承ください。)

 

まず、発達障害バーとは何ぞや?と。

文字通り、発達障害を持つ方が営業されるバーです。発達障害を持つ人の避難所(?)的な場所で、そこに行くと発達障害当事者の仲間がいて本音や愚痴がいろいろ飛び交っているそうです。

関西なら金輝さん、関東ならThe BRATsさん

などが有名ですね。

定期的にイベントなども開催されているようで

同じく発達障害を持つアイドル的な人とお話できる会とか、発達障害の人作ったハンドメイドの販売イベントとかもあるようです。

 

はい、今日はこれに

辛口にツッコませていただきます。

 

まず、言いたいことは

発達障害を商売道具にするならもっとポジティブに使え!!!」です。

 

発達障害バーがネガティブなサービスだとは思ってないし、対面で同じ障害を持つ仲間と話せるのは素敵だと思います。当事者にしかわからない悩みで盛り上がり、そこでお酒を飲むのも楽しそうです。

 

ですが、

そのバーを出ればあなたは障害を抱えながら

健常者と働き、お金を稼がなければいけません。

そこで過ごす2時間、仲間たちと

「今週も頑張ったね」

「健常者にこんな風に言われてつらかったね」

とお互い労い合い、

傷を舐め合うのはいいのですが、

それは発達障害として生きていく上での

「困り感」を和らげてくれるものではないです。

サービスとしてはアリだと思いますが、

もしこれを「発達障害者支援」だと言うなら

私は「ふざけんな」と思ってしまいます。

 

追い詰められて苦しくて、

味方がいない、どこにも居場所がない人が

過ごすにはピッタリの場所だと思いますが、

発達障害バーはあなたを雇い、

生活できるだけの給料を支払ってはくれません。

就職先・転職先を斡旋してはくれません。

当事者の生の情報は得られますが、

彼らは就活エージェントや

ハロワの職員ではないので、

職務経歴書の書き方や求人情報の見方など

アドバイスも「素人」のアドバイスにすぎないのです。

 

発達障害バーは一時的にはあなたを満たしてくれますし、仲間もできます。でもそれだけです。仲間を求めている人には最適な場所ですが、あなたの生活を楽にしたり、支援はしてくれません。

 

そして、最大の落とし穴は、

発達障害バーにいて居心地がいいのは

「周りがみんな障害に理解があるから」

ということです。

 

発達障害バーには、

発達障害の当事者か、

障害に理解のある健常者が集まります。

おそらく、障害に理解のない健常者は

発達障害バーの存在すら知らないでしょう。

そりゃ居心地いいに決まってます。

障害を理解してくれる人しかいないんだから。

 

でも、あなたの職場や家庭内はどうですか?

家族や友達は発達障害のことを理解してくれる人ばかりではないはずです。

そういう人たちと関わり合いながら生活していかなきゃいけないから発達障害者には適切な支援が必要だし、生活のひとつひとつに工夫がいります。

 

「それこそ自分でどうにかしろよ」

というツッコミが聞こえてきそうですが、

世に出回っている健常者の仕事術や収納術は、

発達障害者には参考にならないものも多いですし、発達障害者向けのノウハウも「それができたら苦労してない」と言いたくようなズレたものが多いように思います。

それに、独自で工夫を図っても

そのやり方が効果的かどうかはやるまでわからず、非常に効率が悪いと思います。

 

世の中に発達障害の人はごまんといるのに、

発達障害者が健常者とともに共存するための

ノウハウは見つけづらく、

(言い方は悪いですが)発達障害者が仲間内で

傷を舐め合うコミュニティは発達障害バーに限らず、たくさんある。

 

私はこれ

「健常者と共存するのではなく、障害者にとって居心地のいい逃避先をつくっていったから、こういう現状なんだろうな」

と思っています。

 

発達障害バーはあくまで頑張っている障害者が羽休めをする場所です。

その休憩場所を苦しい現実からの逃避先にしてはいけないと思います。

もし現実逃避の逃げ場所になってしまったら、

マスター共々、共倒れです。

 

もっとポジティブに

ADHD向けのバッグinバッグ」とか

ASD向けのTodoノート」とか

「聴覚過敏向けのイヤホン」とか

当事者を助けるツール開発をやるとか、

社会で生きていくためのノウハウ本とか

そういうサービスが増えていけば

困り感が少しずつ減っていく気がしますし、

私はそういうプロダクトを売る発達障害者が

もっと増えていけばいいと思っています。

 

障害を抱えながら生きていくのはしんどいけど

現場から目を背け続けて、つらいことから逃げ続けるのは間違ってると思います。

休むことは必要だと思うし、それを否定したりはしませんが、何でもかんでも障害のせいにしたり、健常者のせいにしたりするのは間違ってます。

 

「障害があるからできないだろう」と

諦めるのはあなたの責任だし、

「しんどいけど健常者の仲間と頑張ろう」と

挑戦するのもあなたの責任です。

障害とか毒親とか貧困とか、

すべてがすべてあなたの責任ではないにしろ、

過去の自分の決断と行動の結果が今の自分を作っているのは確かです。

 

逃げるのではなく前向きに、

少しでも楽に生きる方法を考えませんか?

 

今日はこの辺で失礼します。

障害に甘えないとはどういうことか。

こんにちは、ほりこです。

 

先ほど、こんなツイートを見つけました。

https://twitter.com/chiro_kazenohi/status/987928879078649856?s=21

 

この方の1連のツイート、

当事者の方ならとっても共感できますよね。

でも、ふと思ったんです。

 

障害を理解してもらうのはいいとして、

生きづらさをわかってもらったところで

どうするんだろう?って。

 

生きづらさをわかってもらえれば

障害者にとってより過ごしやすくなるんでしょうか?

そして、その生きづらさは

本当に障害者だけのものなのでしょうか?

 

私はたぶん違うと思います。

 

私はADHDなので、

あくまでADHD目線の話にはなりますが、

私がADHDとして日頃困っていることは

 

・大事なものをよく紛失する

・身支度が上手くいかない

・遅刻する

・管理ができない

・スケジュール管理ができない

 

というようなものです。

 

その結果、周囲からの信頼を失いがちで、

人間関係を築いていくのが難しかったりしますし、たしかに生きづらさは常に感じています。

 

でも、その生きづらさを

障害のない人にわかってもらう必要は

私はないと思っています。

なぜなら、

「障害がない人でも

上手くいかない人はたくさんいる」

からです。

 

発達障害を抱えていれば誰しも1回は

「もし発達障害がなかったら...」

と考えたことがあると思います。

 

でも、もし私が発達障害がなかったら、

仕事ができる人になれたのでしょうか?

 

たぶん、

「頑張ればなれるかもしれないけど、

そうなるにはそれなりの努力が必要」

だと思います。

 

発達障害の生きづらさをわかってもらいたい!

という気持ちはものすごくわかります。

でも、これって同時に定型発達者への

偏見にも繋がる気がします。

発達障害者がいう

「生きづらさをわかってほしい」には

「私とちがって発達障害がないんだから

私ほどしんどくないんでしょ?」というような

障害者から健常者への偏見が潜んでいる気がします。

 

全然そんなことないと思います。

定型発達者だってこの窮屈な社会に

日々揉まれているんですから、

生きづらさは絶対感じてると思います。

(もちろん障害者は

障害がある分さらに大変ですが…)

 

しんどさ自慢をし合ったところで

誰も幸せになれないのと同じで、

障害がゆえの生きづらさを

定型発達者にわかってもらっても、

きっと同情されておわりです。

生きやすくも何ともなりません。

それどころか、

場合によっては言い訳がましく

受け取られ、疎まれるかもしれません。

 

どんな障害かを伝えること、

障害が生活にどのように影響するか

などは周囲に伝えればいいと思います。

でも生きづらさをわかってもらおうというのは

「障害に甘えている」ような気がします。

 

定型発達者も障害者も一緒に

しんどさと闘いましょうよ。

障害に甘えて「できません」というより

「ここまでならやれます!」って

言えることが大事な気がします。

 

今日は短めですが、このへんで。